すばらしい天体写真仲間ものがたり

2018年12月28日 (金)

すばらしい天体写真仲間物語 (5)

書き終えたくないような気分ですが、年末でひとくぎりと区切りとしたく。
HHさんとの20年来の思い出の後半、第2章のこの3年間の思い出。
とりとめもなく書き残していますが、私にとってとても大切な思い出です。

一周忌ころまでには、きれいに書き起こしなおしたいと考えています.。



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時は流れ、もう2つ折り携帯など遥か昔になって、スマホの時代になっていました。


2015816日の夏休み最終日、その日が13年ぶりの再会となりました。

13年の間、一度だけMR氏のお店で会ったことはあったものの、結婚前の忙しい中でMR氏と彼にちょっと結婚の報告をしたくらいだけでした。

この13年の間に、私は独身から父となり、

天文写真界はフィルムから完全にデジタルへ、

MR氏の店は閉店、
他の天文ショップもデジタルやネットに対応した店とそれに遅れた店で明暗が出て、都内ではその明るい店の方は”秋葉原勢”に移っていました。

私の撮影は浄土平を中心に続け、充実していました。独身の間は月2回の遠征をし、福島の皆さんにも暖かく遊び相手になっていただきました。しかし、家庭を持ったため、ちょっとアクティビティは落ちていました。2011年の震災の混乱もありました。そして、冬は浄土平が閉鎖で、関東の星仲間は引退していたため、冬の撮影はすっかりしなくなっていました。


13
年前は2つ折り携帯とキャリアメール、ネットはHP作成や掲示板交流がメインでしたが、スマホに置き換わり、SNSが便利で楽しいし、ネットもブログ中心に変わっていました。
(と、いってもSNSを使いだしたのは彼に誘われ再会後でした、、)



13
年ぶりの待ち合わせは秋葉原、
少し緊張していたのを覚えています。はじめに何と言おうか、、、。

ヨドバシの改札で、とメールで待ち合わせをしていましたが、混んで見つからず、
「着いたけどいまどこ?」
と電話しました。

するとヨドバシの前の信号ですぐわかる懐かしい顔が。

あまり変わっていません。しかし、遠くから見ても、以前の柔道で鍛えた"格体いい感じ"から、"大きい感じになったんでないか?"へとと成長していました。
「お~!!! 超久しぶり~」
と言葉を交わし合い、
「どこ行く?」
となりました。

暑いしビールが呑みたいということになり、銀座ライオンへ。

身の上話は仕事の状況や家族の状況を少々。すぐ天文界、天体写真の今昔話です。彼はとにかく最近のデジタルの機材と撮り方に興味津々で、前向きにあれやりたい、でもどうすれば?という話ばかりで盛り上がりました。

その後、ほろ酔いでスターベースやヨドバシを覗きました。
スターベースでは20年前の彼の入選作のあるスカイウォッチャーのバックナンバーを見つけ、彼は喜んで買いましたっけ。

特に次どうするの約束をするでもなく、「またね」で別れました。
まだLINEもしてなかった頃、メールで時折連絡が続きました。



当時10月なら定期的に遠征に出ていた私は、

20151012日の日曜夜に月曜に代休があったので遠征を計画していました。

彼とスケジュールが合って、13年ぶり?の遠征をしようということになりました。場所は近場で、ということで富士山新五号に現地集合にしましいた。私はいつものフル装備、彼は唯一の天文機材のスカイメモと、カメラレンズで臨みました。

はちょうど冷却6Dを導入したばかり。セッティングに戸惑い、ワイワイ。23時くらいから曇って結局また晴れたのは薄明開始前1時間だけ。撮影自体は私も彼も不完全燃焼でしたが、13年ぶりに撮影地で他の方の機材を見て、昔のタカハシ、ペンタックス、一辺倒の時代から、海外製も含め様々な新しいメーカー、コンセプトの製品を目の当たりにして、大きな衝撃を受けたようでした。



20151114日今度は遠征ではなく秋葉原で合流。

富士山で衝撃を受けた彼は、たぶん機材の物色だったんでしょうね、三基や協栄、シュミットを回り、鏡筒や特に赤道儀を熱心に見て回っていました。

そういえば、CEM-60FSQ-106を特に気にしていましたねぇ、、、、。

私もお供して、なぜか彼の持っていたのとお揃いの、エクスペリアタブレットを衝動買いして帰ってきました。



20151213日は秋葉原で合流。ヨドバシカメラや天文ショップを覗きました。

おそらく、彼は私にだまっていましたが、ここでもうFSQ106CEM60に心を決めていたようです。

私はこの日は車移動たっだので、そのまま車でヨドバシ秋葉から中野のフジヤカメラへまで私の車に乗せました。
が、リクライニングさせるのも苦しそうで、さすがに体重はちょっと大丈夫なのか?と心配がよぎってはいました。
フジヤカメラを覗いた後昔のようにルノアールのコーヒーで機材談義をしました。

この一週間くらい後、FSQ106CEM60を注文した宣言を突然彼がしたため、度肝を抜かれましたね。この機材から復活するかーと。



そして年明けの2016110日、花立公園に遠征しました。
この日は昔からの仲間、宇都宮で近所でもあるYさんも合流。天気も良好。昔話や近況で地味に盛り上がりました。彼は、FSQ106CEM60のデビュー、使い方がよくわからねぇとワイワイ。私は、オートガイダーが寿命を迎えたのか、壊れワイワイ。写真は誰もまともに撮れませんでしたが、楽しくやりました。



そしてこのあたりから私も彼に釣られはじめ、
2月には一人でスターベースに寄り、FS-60Cの撮影用セットを衝動買いしています。



2016313日にはまた天文ショップまわりと2人でしました。
この日はオードガイダーやパーツ周りをみましたかね。
これでオートガイダーも決まり、ほぼ彼の機材セットは完成に近づいたような。



201654日は八ヶ岳の八千穂に出ましたが、彼とは都合が合わず、一人でした。
天気は良かったのですが、風が強く、撮影中も家にいる彼とLINE23時くらいまで
ずっと情報交換していました。



2016年8月5日には彼に誘われ、初めて天城高原へ遠征しました。

彼がyoutubeで下調べしていたので、道中のコンビニやらまでリサーチ済みで情報をくれました。初めてのところだし夏に低い山はあまり気が乗らないなぁとは思いましたが、彼の誘いなので乗ってみました。

この遠征は最後となってしまった浄土平遠征とおなじく「なにかすごく新しいこと」が始まった感じがした夜でとても印象に残っています。

そのため、初めて(で最後となってしまった)の昼間の記念写真らしきものも撮りました。

しかも何故か今の機材で夏の成果のほとんどはこの夜のものを超えていません。

ちょうど彼のFSQ106CEM60のセットが順調に立ち上がりつつあるところで彼のテンションもだいぶ高めでした。準備中は昔も彼はそうでしたが、箱を開封し取説を読みながらセットアップ、虫に刺されながらわいわいやりました。夜も夏休みなのに彼と私くらいしか居なくて、夏の夜空を独占気分。私は一夜で帰りましたが、彼は連泊したような記憶です。。

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2016109日は戦場ヶ原へ。

この日は彼は昔からTwitterをやっていてそのフォロワーのNさんもたまたま同じ場所に向かっているということ。Nさんとも合流し、

撮影することに。Nさんはまだ二十歳、彼は昔のままずいぶん面倒見が良い?懐が深いんだなぁと少々関心しました。残念ながら天気はいまいちで一晩中、語り明かしました。



ちょうどこの後、私も彼に誘われTwitterアカウントを取って彼を中心に絡み始めました。
これから後のことはTwitterのフォロワーさんならばご記憶にあるかもしれません、、。



2016年はその後、11月、12月と、年末に私は遠征していますが、
彼と日程は合わず、一人遠征でした。



年末の朝霧には1日違いで行き私は曇り、彼は晴れで悔しかった!

この年末はちょうど新月前後で年始も撮影可能で、彼は年明けにも天城に行くと宣言、私も行こうとしたら年末年始の休みに2回も行くなと家内に酷く叱られましたっけ。

彼のせいですね・・・



2017年の彼との初遠征は225日の天城高原でした。
ちょうどその一週間前、スキー帰りに追突事故に遭い、車は修理中だったのですが、代車で遠征を予定通り決行という、どれだけ彼の影響で狂っていたか、という象徴的な遠征です、、、。

この夜の天城は賑わっていました。私もTwitterを始めてしばらくたち、知ってる方も増えてきていました。人見知りの私ではありますが、彼が間に入ってくれていることもあり、少しづつ仲間が増えるきっかけになった遠征でもありました。

この夜のさそり座アンタレス付近を撮るとき、
彼は構図がわからねぇ

と言って私が導入、撮影は彼、という昔ながらのいい加減さがすごく良い思い出の夜でした。

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2017
429日GWの初日も天城高原で彼と合流しました。
機材を組んだ後で夕方に雨が降りましたが、その後回復。この夜も快晴でした。連夜遠征して機材を雨に晒した昔が懐かしいななどと話もしましたっけ。彼のオートガイドシステムもほぼ立ち上がり、彼は絶頂に向かいつつありました。


またここの間で彼がD810A2台めを買った影響で、私は2台めの6Dとレンズを衝動買いしていました。

ただし、このカメラとレンズが、私にとっての彼の最後の姿を撮ることになるとは予想もしていませんでした、、、。


2017826日は彼に浄土平に行くよと告げ、私は出発し到着しました。
彼はこの頃から毎月のように天城に出かけていて、
「サラダチキンを買いにでたら修善寺に着いた」
をネタに修善寺のコンビニの写真を上げて、遠征していました。この日は彼はどこへ行くのかな?と思っていたら、いつもとは違うコンビニの画像があがりました。

もしや、と思うと、浄土平に彼の車が現れました。

彼にとって13年ぶりくらいの浄土平。夜まで、福島の方々とひさしぶりだなぁと盛り上がり、夜を迎えました。

天気はいまいちでしたが、昔の場所に機材を広げとりあえず撮影しました。


なぜか、この夜はワイワイ、というより久しぶりでしんみりしていたんでしょうか。なんとなく静かに撮影していたような気がします。


久しぶりで、これから新しいことがまた始まる、、、とうれしかったのでしょう。

私は撮影している彼のシルエットを撮影していました、、、。


天気あまりさえないまま朝を迎えました。昔の私なら独身だったので昼間でいましたが、

今はそうもいかず、先に帰るね、の一言を彼に伝え、別れました。


これが最後に直接交わした言葉になってしまいました。

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この年末も彼との日程が合わず、1日違いでの遠征などになってしまいまいた。

彼はこの秋口は月に2回とか遠征し、写真のレベルもどんどんあがり4時間露光とかをモノにし始めていました。



年が明け2018年。
直接会うことはなくとも、SNSで彼とはちょくちょくやり取りしていました。今年の2月は特に忙しくなるから遠征できなさそう、と言っていた通り2月に入ってSNSでのやりとりも少し減りました。



しかし、ふと223日を最後に音信がないことに気づきました。



でも忙しいと言っていたから、あまり連絡をとっても邪魔かな?3月末になればまた出てくるだろう、と思っていました。

しかし、勇気を出して3月1日にメッセージを送っても一向に既読がつかないので、これはなにかおかしい、と感じ始めていました。



314日深夜でした。久しぶりにPCを立ち上げ、メールを受信しました。
最近はSNSばかりでほとんどメールなど来ません。



件名の中に、彼の名前と急逝の文字がありました。



頭から血の気が引くとも、のぼるともわからない、感覚が走りました。



そして次第に、心拍が上がりました。



ひさしぶりのFさんからのメールでした。
彼の弟様が天体写真関係の繋がりへのコンタクトを試みられてくださっていたため、天体写真繋がりで私のところへもメールで訃報が届いていたのです。


224日に亡くなったとのことですが、その3日後には私のところで既にメールをいただいていたのです。


しかし私にとってはその日に起こった出来事。


信じたくなく、あちらこちらできる限りの連絡手段から弟様へのコンタクトを試みました。

動転しいたため、彼の痕跡を無くしたくないということでいろいろな方にログなどを残せないか、と質問をしたりしていました。Twitterのフォロワー様にはだいぶ助けていただきました。


この夜はまったく眠ることはできませんでした。
半分泣きながらスマホに向かい、あちこちコンタクトをしていました。

翌日も仕事になはりませんでした。

翌昼前には弟様と直接連絡がつき、
信じたくない訃を受け入れなくてはならなくなりました。



その後何日間か、楽しい思い出をみなさんと語っていると、
また遠征地に行けば会えそうな気がして少し気分が落ち着いてきました。


彼の置き土産として、天文仲間が増え、語り合える方々も増えていました。
彼と、人見知りの私にお声をかけてくださった、みなさまにもお礼いたします。



そんな気持ちが少々落ち着いた後日、また大きなお土産が。

彼は4月発売の天文ガイドに13年ぶりの入選をしていました。

亡くなってから入選するなんて、本当にすごい人でした、、、、、。





うまく書けない。

出会って、

いろいろなことを学ばせてもらって、

一緒に過ごさせてもらって、

天文と通じて私の人生の大きな軸になってくれて、

ありがとう、としか言えない。



これからも星を見続けます。


遠征地で別れたから、また遠征地で会えると思っています。
おいらは地上から遠征地に行かせてもらうよ。


またよろしくね。

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2018年9月19日 (水)

すばらしい天体写真仲間物語 (4)

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HHさんとの遠征の休眠期間の13年間の思い出です。

この間にフィルムからデジカメ、

通話中心の携帯から、スマホへ



と大きく変化していました。


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2002年前後、地方へ行ってしまったり、家庭を持ったり、彼のように仕事が忙しくなったりで関東で繋がっていた方たちのほとんどが、天文から離れてしまいました。

しかし、それまでの何年間かで浄土平の地元福島の方々との繋がりができていました。浄土平に来ている分にはまったく寂しい思いをすることもなく、むしろ曇っていようが
「浄土平に遊びに行く」
ような感じになっていました。この何年かで、みなさんと焼き肉を
しながら入選作を叩き出していました。

そんなことをしながら、私も社会人に。

製造業に就職したのが幸いして、週休2日と、年何回かの長期休暇もあるので天文を続ける環境は残りました。たださすがに始めの2年くらいは生活の変化で天体写真はほとんど撮らず、GWと夏休みくらいになってました。

就職した1社目が大企業のグループではあったのですが、すぐに経営破綻。若いので迷わず転職。それが気分的に逆に落ち着いて、ここで機材を遠征しやすいようにダウンサイジングしすべて買いなおしました。

ちょうとデジタル化が急激な時期で、デジカメ
対応機材に入替えというタイミングでした。

独身で週末は恐ろしくヒマだったことと、デジタルの手軽さが楽しくなり、フォトコンはお休みのうえで、バカみたいに遠征する生活がはじまりました。

金曜の夕、仕事上がりに浄土平に向かい、
17時まで埼玉で仕事をしていたのに、22時には浄土平で撮影開始、土曜の夜もそのまま撮影。しかも月2回。なんてめちゃくちゃやりました。真夏は焼き肉、晩夏はサンマ、秋は鍋で暖まりながらみなさんと楽しく撮影を楽しんでいました。昼間は高湯温泉に下りて温泉でさっぱりです。

若かったですね。

地元福島の人から聞いたのですが、駐車場の管理をしているビジターセンターの方からは、いつも所沢ナンバーの私の車が来ているので、
「あの所沢ナンバーは、本当に所沢から来ているのか?」
と噂をされていたそうです、、。

福島の方々ととても楽しく過ごしていました(今も)。しかし「天文やめてしまった彼やほかの人たちは最近どうしてるんだとろうね?」という話題はよくあがっていました。 4月から10月末までは浄土平に上がれるのですが、冬季は閉鎖ですから、私の天文活動は彼と会わなくなった2002年頃から再会までは、冬季は休眠となっていました。関東で一人は寒いですし、彼と冬によく使っていた里美牧場も空が悪くなっていましたので、、、。


福島中心の天文活動活動ではありましたが、時折、千葉のMR氏の店にはパーツを買いに行っていました。
2008年、MR氏から彼が店に久しぶりに遊びに来るよ、と情報をいただきましいた。せっかくなので嫁の紹介に、嫁も連れて遊びに行ったのが7年ぶりくらいの再会でした。

久しぶりに話を聞くと、
仕事は忙しいがすごく楽しい、天文どころではない、機材はすべて売って

しまった。でも一眼デジカメを始めて買ったので、スナップ中心にちょっと遊んでいる。天文は当座やるつもりはないなぁ
と言っていました。

この7年の間に、通話の携帯やショートメールの時代からメールの携帯の時代に変わっていました。
携帯メールのアドレスを知らせあって、そのうちまた連絡すると言って別れたような記憶です。

 

 

忙しい彼からお誘いのメールはなく、引き続き結婚した後も連泊や月2回はさすがにやらなくなりましたが、福島中心で撮影は続きました。もう撮影も飽き気味の頃でしたので、天文台の手伝いも少々やらせていただました。特に思い出深いのは2010年の冬季閉館のお手伝いです。閉館日に行くのは初めてでした。大したお手伝いはできていませんでしたが、気持ち的には、またひと夏施設にお世話になったし、来年は子供も生まれる予定でなかなか遠征に来られなくなるかもな、と しみじみとありがとう、の気分で作業をしていました。まさか、翌3月にあんな震災が来るなど、予測するはずもなく、、、。

幸い、天文台には直接の被害はなかったため、2011年以降も撮影に通い続けました。ただ2008年秋から噴気活動が活発なので使えない期間も発生していました。そんなときは富士山遠征したり、結構彷徨ってましたね、、、。。

ペースは落ちたものの、年23回は訪浄し、皆さんに会ったり、撮影できるときには撮影も続けてました。そんな時もシーズンに1回は「彼はどうしているかねぇ」という会話はかならずお約束でした。

とにかく濃い思い出が残ってましたから。


そして2015年がやってきます。


何があったのでしょう、6月に彼から突然、「久しぶり~、 D810Aも出るし、すこし星の写真でも
撮ってみようか思って。ひさしぶりに会わない?」とメールが来ました。え?どうした突然、とは思いましたが、2つ返事で盆休みに会うことに。

2015年の盆休みも浄土平遠征をしましたが、帰った翌日に彼と秋葉原で会う約束を入れました。「明日、会うんだよ」と福島の方にも報告です。


そして2015年の夏休み、ちょっとドキドキしながらのほぼ13年ぶりの再会を果たしました。



2章の幕が開けたのです。


時は流れ、もう2つ折り携帯など遥か昔になって、スマホの時代になっていました。

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2018年9月 4日 (火)

再会 そして 新たな出会い

週末、  2月に亡くなったHHさんへのお参りに行ってきました。
昨年の8月に遠征して以来、1年ぶりの再会です。

もう実体はそこにはなく、少し涙してしましたが、
また次の遠征で会えそうな気が、
今も、きっとこれからも、いつでも一緒でしょう。


ネットの一部で噂のこいつにも再会

ダブル D810A

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分かってる大人の組み合わせ

PCレスの、FSQ-106ED + CEM60 + M-GEN のセット
(ごめん、本人が使うみたいに脚のばさなかった)

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ご親族が大体の機材はそのままお使いになるとのことで、
機材整理をお手伝いさせていただきました。
カメラにお詳しく、子供の頃、HHさんに天体観測に連れまわされ、
センスがあるのが幸いでした。(保管場所があることも)

とは言え、あまりにもCEM-60が初心者には厳しいので
EM-10 TENNMA2jrに組みなおし、まずは観望に使いやすいようにしました。
EM-10は、以前いったん天文を止めたときに売らずに残していたんですね。
いつかは、と思っていたのでしょう。(ほぼ未使用でした)


それにしてもすごい物量、スカイメモを3台持っていることは聞いていましたが、
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上の画像には写ってないけど、他にカメラ三脚が4脚ある、、、。

そして最も意味不明なのは

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職業カメラマンでも同じ型番のフラッシュは2つ持たないと思うんですが、、。

思い出話にも花が咲きました。

HHさん、私、ご親族、齢は1つづしか離れてないので

家族のことなど、共通点が多く、新しい出会いとなりました。

いつか一緒に遠征に行くのが楽しみです。


さて、形見として工作無精の彼が珍しく組んだと思われるELフラットと
悪魔の書を頂戴いたしました。

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彼とのブランク後に再会してから2年で、

私の6Dは1台から3台へ増加、レンズ2本購入(手持ちでこれまで一番高い)

そもそも再会したその日に彼のタブレットがよかったので衝動でタブレットを入替え、

PC買い替え、オートガイダー買い替え、ガイド用Cレンズ購入(まだ使ってない)

すごい出費でした。

ってわけで空からささやかれても、レンズは当座買えないよ!







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2018年6月23日 (土)

すばらしい天体写真仲間物語 (3)

思い出し、書き出し、それが書き終わってしまう時がくるのも怖いような気がして、
続きをなかなか書けずにいました。

引き続き、彼との楽しい思い出です。90年代末。


若い私に、彼(H氏)や、ほかにもすばらしい先輩方との出会いがあり、
青春時代を支えていただきました

(※写真は当時唯一のH氏との撮影風景。奥のピラーが彼のMS-4です。スマホ、デジカメもなかった当時は、スナップなどはほとんど撮っていません。男どうしですしね。)

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彼と直接つながる前に、一回り上の2人のMY氏とT氏、店をはじめたMR氏との出会いがありました。

MY
氏とT氏は、私がバイトしていた都内のお店のインパクトありすぎるお客さんでした。2人とも125SDPMS-5、その2人どうしが友人関係になる前からぞれぞれよくフォトコン入選していた。MY氏は前から都内勤務でしたがMY氏が都内に転勤してきて店で出会って意気投合していました。当時2人ともまだ30代の独身貴族でしたからお互いの家を通い合う仲?になっていました。MY氏は例のいつも60回ローンの人、都内に20年住んでいますが近所にコンビニがあるので冷蔵庫もない生活をしていました。が、登山部出身のT氏と出会いT氏が部屋で鍋を作ってくれたりするので、調理器具が増えたりしてきていたそうです。


あぁ話がそれましたね。でもこれが大事なつながりになるのです。

店でMYさんが話しかけてくれたことがあったんだと思います。MY氏は浄土平が主な撮影フィールドでした。たまには私が浄土平に行っていることを話して「じゃぁ」ということで携帯の番号でも教え合っていたのかもしれません。そしてまず浄土平でMY氏と一緒に撮影した記憶があります。またしばらくして、MY氏からT氏と千葉に出来たMR氏の面白い店に行くんだけど一緒に行ってみないか?と誘われ、T氏とも直接のお知り合いになれました。MR氏の店は当時最新のピクトロスタットデジタルを入れたり、アストロカメラ、オフアキシステムを生み出し始めていていました。

その頃はもう学生生活が長引いていたころでした。さて私のバイトですが、、当時その店は勢いがあるが故の問題も気になっていました。対応で、お客様第一と言えない部分も気になってきてしまい、発売する商品も元に戻せない2メーカーを組み合わせた"ニコイチ品"などがあってどうかな、と思い始めていました。バイトが5年いるとはどういうこと?となるのも気分的に嫌だなぁと思っていましたしそこで、一区切りとしてバイトは終わりにしました。


MR氏の店や、MY氏の部屋でMY氏やT氏の中に私も入れてもらえるようになりました。そしれ冬季は、里美牧場にMY氏とT氏は撮影に行っていたですが、遠征にも合流するようになりました。冬で寒いので撮影中によくT氏が鍋を作ってくれました(鍋の話でつながってきました)。私は若いので2時間露出の世界でしたから撮影中は余裕だったのです。私は大根おろし係だと、-10℃の中大根おろしをおろしていました。撮影中、テーブルの鍋を囲んで会話がよく盛り上がりました。そんな中、MY氏とT氏が「先月の新月は、彼(H)と一緒だったんだが、大根おろしを苦労していた」とか話を始めました。そして私は「あれ?H氏というのはあの、店で見た体格のいい若いお兄さんか?」と気づきました。MY氏から話から出てくる彼の機材を聞いて、同一人物であることを確信しました。


MY氏やT氏にも大変お世話になり、人生についていろいろ学ばせていただきました。しらびそ高原に初めて行くときに案内していただいたのもT氏でしたし、よくMR氏の家にも私一人でもお邪魔しました。本棚に私と同じく中島義道の本があるのに気づき、孤独?について話したことなんかもありましたっけ。


話を戻しましょう、彼も里美牧場やMR氏の店に良く行くようになっていたのです。私のバイトしていた店の問題から他の店に流れている人も少なからずいたようでした。

そして、後日MR氏の店にプリントに行って、初めて彼と直接出会ったのです。はじめは私が警戒?していたのと、彼は社会人で私がまだその時が学生、という負い目から、こちらが打ち解けることができませんでした。はじめの頃はMR氏も交え、彼を里美牧場で撮影するところから入ったと思います。だんだんと打ち解けてきました。そして、同じタイミングでT氏は転勤で東京を離れ、MY氏は腰痛で天体写真をやれなくなり、私らは大抵2人で遠征に出るようになっていました。


まだ若かった私たちがは新月毎というよりは連休時にどーんと遠征するスタイルでした。特にGWや盆休みは遠征地で3連泊とかを平気でこなしていました。しかも、不思議と20年前の晴天率は凄まじく3夜晴れることも普通にあったような気がします。今は、デジタルになった影響か分かりませんが、連泊は少なく1夜を大切にする撮り方をする人が多いのではないでしょうか。私も今はそうです。

3夜も連泊する時代は、遠征の時間は贅沢でした。そして私たちはガツガツ撮るタイプではなかったのです。3連泊前提ですから、到着した翌日は確実に現場で寝るわけです。するとどうなるでしょう、まず遠征地に着くと「長い運転お疲れ~」で、クーラーボックスからスーパードライ500ml缶が出てきてプシュッと。H氏は職場から直行で来てスーツ姿で到着ということも多くありました。マジでお疲れ~!です。1杯やって調子が出てから機材を組み立てはじめ、また機材が組み上げ終わると「建前」だと2本目です。H氏は酒が強いからよいのですが、それに付き合う私は弱いので満点の夜空の元で寝てしまい、H氏はその時間で入選作を撮っていて、さらに隣にいたMR氏が表紙入選作を撮っていた、なんて事件もありました。

昼間は特になにをするでもなくダラダラ過ごし、昼飯は浄土平ではソースかつ丼、里美ではジンギスカンなど食にも抜かりはありませんでした。そのころの遠征地は他の人も多く賑やかでした。みんな大型機材で2連泊くらいは当たり前。MR氏の店を通じて顔見知りの方も多く、楽しい日々を過ごしました。

さて、撮影の方は特に真面目にやっていたわけではなかったのですが、抑えるところを抑えていたからなのか、フィルムが大らかだったからなのか、一度遠征すればH氏は3作とか入選作をたたき出し2誌3か月連続入選とかしていました。4,5千円の入選賞金を6本とかたたき出していたので、彼は遠征がペイして黒字になったとか言っていました。私も1作くらいは試しに送り、入選を少しずつ繰り返していました。楽しくフォトコンをやっていました。


遠征から帰った次の休日は次の“お祭り”の「現像」「プリント」です。フィルム時代は主にポジで撮っていましたから現像はプロラボ任せ。よくフジ系の「クリエイト」に出していました。現像終了までは2時間かかりますから、ヨドバシとかで暇のつぶせる新宿に2人で集合しました。(今日は勇気を出して言います)でも彼は何度か30分遅刻してきました。なぜでしょうか!?新宿駅の北方面にいろんなところがありますね。はいったところがアタリだったのでつい“延長”したら遅刻しちゃった!と言っていました。クリエイトに出し、現像上がりまではマップカメラで中古カメラを見たり、ヨドバシで買い物したり、飯を食べたりしていました。そしてクリエイトで現像が上がり店内のライトボックスで、「よしゃ~」「あちゃー」とつぶやいたあと、MR氏の店へプリントへ出発です。

MR氏の店には天体写真に熱中するいろんな人が集まってました、プリント終わってもお菓子を食べながら、翌日仕事であってもみなさん午前2時とかまでたむろっていました。話は天体写真ばかりでなく、いろいろでした。MR氏はよく付き合っていただいたなと思いました。場と楽しい機材とアドバイスをいただけたことに感謝です。またMR氏のお店で、これまた一回り先輩のK氏と出会い、店や遠征先で天体写真以外のことも教えていただきました。店で出前をとって夕食にしたり、遠征以外の週末も楽しい日々を過ごしました。



彼とは遠征や、天候が悪くて浄土平に上がれず2人で檜原湖でキャンプしたり、街では喫茶店や中古カメラ巡りしたり、濃い数年間でした。

とても、とても楽しいフィルム天体写真生活を繰り返しました。



そして3年繰り返すうちに、先輩のK氏も海外出向で日本を離れ、彼は仕事が忙しくなり撮影をきっぱり止め機材を手放してしました。私も社会人になりました。

彼とは長い休眠期間となりました。



私は一人になりかけましたが、この3年の間に、浄土平を通じて知り合いになった方々と次の約15年を過ごしました。



また、今の私があるのはこの3年間、もちろんH氏を含め、たくさんの先輩方との出会いが支えになったのと、学ばせていいただいたことがあってです。ちゃんとお礼をお伝えしたことがありませんでした。

この場を借りて、お礼を申し上げます。感謝しております。本当にありがとうございました。

 

 

 

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2018年4月16日 (月)

すばらしい天体写真仲間物語 (2)

引き続き、彼との楽しい思い出です。

90年代の天体写真界の懐かしい周辺の話題も思い出しています。


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1990
年代の後半から2000年代の入り口は、フィルム天体写真の黄金期、絶頂を迎えていました。天文イベントとしては、ヘールボップ彗星や百武彗星の2つの彗星と、ダストトレイル理論で予報精度があがり2度楽しめた、しし座流星群の盛り上がりが。

天体写真では1992年頃にSBIG社がオードガイダーST-4を販売。長時間露出、長焦点、ラージフォマット化の流れが加速していました。

私が直焦点を始める前の1980年代にはすでにモータードライブは主流になっていて、"眼視手動ガイド" から "モータードライブ+眼視手動補正" の時代になっていました。が、それでもST-4の登場までは辛い眼視補正作業は変わらず、ほとんどの人は数十分の露出が限界でした。私も天体写真撮影を始めたころは、あのビクセンのGA-4の十字線と睨めっこをしていました。

90年代後半はST-4の値段が下がってきて普及が進んできました。長焦点のガイドも苦ではなくなったので光学系は長焦点に、露光も長くなり、撮影光学系はガイド成功率の高い屈折にシフトしていきました。そして画質を求め35mm版からブローニ版へのシフトもこれもすごい勢いでした。各ショップはガイド関係のグッズや、天体写真専用のブローニ版のアストロカメラを挙って開発して販売していました。

そのような背景から、90年代後半の直焦点天体写真のハイレベルなアマチュアの定番と言えば、鏡筒は125SD-HF、赤道儀はNJP、行くとこまで行ってる人だとMS-5といった感じでした。勢いがあった時代なので、EM-200や、EM-200と望遠鏡を買う人はコンスタントに出ていました。しかし125SD-HFや、タカハシのNJP以上、ペンタックスのMS-4以上の赤道儀が売れる時はそれなりのインパクトを感じました。しかもそのクラスの望遠鏡と赤道儀のセットとなるとさすがに稀で、赤道儀だけの買い替えや、鏡筒の買い替えがほとんどでした。

そのクラスの機材を買うのは、30代独身層か、安定の40代半ば以降の子育て終了後のそれなりの企業勤めの方が中心でした。そんな中に直焦点をやる20代以下がいると目立ちました。結局4年アルバイトをした中で、インパクトの残った20代以下というと、後に盗作疑惑(年齢も詐称だったらしい)で話題になった人と、彼だけです。(盗作疑惑の人はどう見ても年下の高校生には見えませんでした)。また天文をやる人はそもそも必要のない趣味のものだし、硬い人?が多いためかローンを利用する比率は高くないのですがそれでも高額商品ではローンにする人の割合は23割はあったような気がします。

余談ですが、後の登場人物で、いつも60回ローン、先月もローン組んだのに、今月もまた60回ローン!?という人がいたのですが、後に友人になってから聞くと「そのほうが仕事のやる気が出る」というようなことを言っていたような気がします。確かに機材を買うためにに働いていると思えばやる気もでる時もあるかもかもなぁ。もちろん彼が逆に硬い仕事をやっているからこそ成せる技です。

そして、ある日、20代の目の鋭い体格のいいお兄さんが店を訪れました。

接客は私ではなく彼と地元同好会かなにかで面識のあった社員の方でした。彼は訪れたその日のうちに、MS-4125SD-HFを、しかも一括で買って帰っていきました。自分と齢はほとんど同じであることは大体見た目でわかりました。彼はストレートで社会人になってますから、今になってみると働き出して2年目くらいだったんだと思います。


なんだこの人は!?

という第一印象でした。これが彼との初めての出会いでした。彼と天体写真で遊ぶようになるまでになったのはもう少し後のことです。


(続きはまた。)

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2018年3月28日 (水)

追悼 HH(酒力)さん すばらしい天体写真仲間物語

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先日、これまでの人生の中で最も悲しい報に触れました。

2月、このブログでもリンクしています私の親友のHH氏(平田さん)が、急逝されました。
私の1つ上、まだ40代前半でした。


彼とは二十歳過ぎの1998年ころに出会い、20年来の付き合いでした。お互い、仕事やらでブランクがありましたが3年前に再会を果たし、この3年はまた活発にやり取りし、時折遠征に一緒に出かけていました。これからはのんびり、あと30年くらい一緒に天文を楽しめるかな、と思っていたところ、考えてもみたこともかった悲しい出来事となりました。

お互い昨年夏過ぎからお互いのタイミングが合わず、最後に会ったのは昨年20178月の浄土平への遠征でした。彼にとっての15年ぶりの浄土平遠征に合流したのが最後になってしまいました。しかし、そこは最も彼との思い出が濃く詰まったところでした。その遠征後も1週間も空かず、LINEやらTwitterでは繋がっていて天体写真談義やら、お互い別に遠征に行っているときは冷やかしやらは続いていました。しかし、ふと223日を最後に音信がないことに3月に入って気づきました。しかし彼は教師であったため次に遠征にいけるのは4月かな?などど話あっていました。そのため、ちょうど忙しい季節だから、あまり連絡をとっても邪魔かな?3月末になればまた出てくるだろう、と思っていました。

そんな矢先、彼の弟様が天体写真関係の繋がりへのコンタクトを試みられてくださっていたため、天体写真繋がりで私のところへもメールで訃報が届いていたのです。私も多忙でメール受信の頻度が低くなっていたため、314日になって私はその報を受け取ることとなりました。


224日に彼は旅立ったそうです。


彼には申し訳ありませんが、もし、直後に訃報をいただけていたとしても正気を保ち、彼のもとへすぐに行くことができたかというと、その自信はありません。会えなかったのは残念ではありますが、これでよかったのかもしれないと思っています。

この歳ですから、もちろん、もう死に触れるのは初めてではありません。しかし、親族の死でもいわば"順番"は崩れておらず覚悟ができていたためか、こんなに泣いたことはありませんでした、、。

私としては幸いに感じたのが、最後の会話が回鍋肉についてだったことと、亡くなる前夜の最後のツイートが望遠鏡の物色だったことです。多分そのまま、天国で食べたたり、望遠鏡をどれ買おうか、画像処理がめんどくさいとか、その観測地に行こうか、とか今も思っていそうに思えます。

彼は私の齢とほぼ同じの、外から見れば友人ではありますが、私にとっては先輩であり、心の支えの人でもありました。とてもスケールの大きな、おおらかな人でした。しかし繊細な部分もあり、彼の風景写真や星景写真の中で、彼の「心象」をうかがうことができます。



落ち込み、天文をやる気も失いかけました。


しかし、この3年、彼が引っ張りだしてくれたおかげで、3年前までは20年前の仲間のほとんどが天文から引退してしまい、ほぼ一人で天文をやっていたところ、繋がりが増えました。この新しいつながりを大切にし、彼のことも思いつづけながら星と関わりたいですし、彼もそれを喜ぶでしょうから、今後も「素晴らしき哉天文人生」の続編を展開していきたいと思います。


彼は文才もあります。彼に見倣い、また彼へのお礼も込めて、続編のまえにこれまでの「物語」を書き出そうと思いました。

彼へのお礼を書くには、私のこれまでも書かないと伝わりません。

勇気を出してそこを書き、また関係登場人物?も既に時効になってきていますので、彼との出会いの前から彼との別れまでを「物語」に記そうと思います、、、、。

すこしづつ、書いていきます。


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彼と出会ったのはいつだったのかは実は正確には覚えていません。

いつのまにか意気投合し、いつのまにか一緒に遠征していました。遠征するのみでなく、街でも面白可笑しく過ごしました。20年の付き合いでしたが、彼も私も仕事の都合で音信のない期間が間に14年ばかりありました。この14年の間は私の結婚の報告で1度偶然会っただけ。前半に3年ほど、そしてこれからは長くなりそうだと思った再会後は3年ほどでまさかのことになってしまいました。それでも14年の隙間を感じない濃い思い出が詰まっています。

亡くなってからご親族からおうかがいして知ったことですが、彼も私も天文に興味をもったきっかけは1986年のハレー彗星の接近でした。私の場合は父がミーハーな人だったのでハレー彗星ブームに乗り望遠鏡を買い、観測に連れ出されました。また父がカメラ趣味も元々あったため、撮影もトライしていました。私にとってはそれが天文や天体写真への興味のきっかけです。

中学は陸上の部活やら受験やらで普通の中学生らしく特に天文とは深いつながりは持たずに過ごしました。高校へ進み運動程度の部活をやりたかったのですが、陸上部がインターハイに出るレベルで私はそこまで求めていませんでした。県立高校ではあったのですが、旧制中学からの歴史ある高校なので地学部があり、活動も比較的活発でした。そこで地学部に入ったことが天文に深く入り込むきっかけとなりました。実際は地学部以外のことにのめりこんではいたものの、地学部の1年時の夏合宿の入笠山で見た天の川、ペルセウス座流星群、、、。それに感動して2年目はそれまでのお年玉を全てつぎ込んで型落ちのP-2S赤道儀と75ED-HFを買い、入笠山でM31を直焦点撮影しています。3年は乗鞍まで夏合宿に行きました。この高校生活がその後の私の天文の原点です。


さて、彼との初めての出会いは、たぶん、1998年ころのアルバイト中のことだったと記憶しています。


私は大学入学でやはり天文研究会に入りました。私の代近く以降からは、"天文" という軸ではあまり高校ほど質の高くない天文研究会ではありましたが、私の頃はまだ星はともかく見ていました。入学してすぐ天文研究会の院生の方の紹介で、今はない都内の天文ショップでのアルバイトを始めました。この店が出会いの場所であったはずです。

彼と私は年齢は1つしか離れてませんでした。しかし社会人デビューは目標に向かって真っすぐの彼の方が5年早かったはず。というのも私は "事情" があっての迷いから、大学生活の途中で大学を休んでいるのでその分だけ年の差以上の差があったのです。彼との第一章の思い出は、この休みを終えた大学生活の後半のことでした。

アルバイトでは、通販の電話受けや、梱包発送、店舗の接客はもちろん、お金に直接かかわらないメーカーへの発注などの事務作業もやっていました。かなりの社会勉強をさせていただきました。そして当時写真撮影志向の強い店であったので天体写真についての知識も最新のものが得ることができました。お客様との出会いもありました。もちろん、撮ることを我慢することができず、実家通いだったこともあって頂いたバイト代はそのまま望遠鏡やら撮影機材へと消えていました、、、。バイトの最後の頃はかなりのアドバイス能力となっていました。

天文界の景気とその店の勢いが良かったので休日には店頭でかなりの高額セットもコンスタントに売れたのですが、やはりそれなりにインパクトのある売れ方のものは今でも1つ1つ自分の接客でなかったものであっても覚えています。


そしてバイトの4年目にその日は訪れました。


彼との楽しい第一章のはじまりです。

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