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2018年6月23日 (土)

すばらしい天体写真仲間物語 (3)

思い出し、書き出し、それが書き終わってしまう時がくるのも怖いような気がして、
続きをなかなか書けずにいました。

引き続き、彼との楽しい思い出です。90年代末。


若い私に、彼(H氏)や、ほかにもすばらしい先輩方との出会いがあり、
青春時代を支えていただきました

(※写真は当時唯一のH氏との撮影風景。奥のピラーが彼のMS-4です。スマホ、デジカメもなかった当時は、スナップなどはほとんど撮っていません。男どうしですしね。)

Img_20180315_0001





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彼と直接つながる前に、一回り上の2人のMY氏とT氏、店をはじめたMR氏との出会いがありました。

MY
氏とT氏は、私がバイトしていた都内のお店のインパクトありすぎるお客さんでした。2人とも125SDPMS-5、その2人どうしが友人関係になる前からぞれぞれよくフォトコン入選していた。MY氏は前から都内勤務でしたがMY氏が都内に転勤してきて店で出会って意気投合していました。当時2人ともまだ30代の独身貴族でしたからお互いの家を通い合う仲?になっていました。MY氏は例のいつも60回ローンの人、都内に20年住んでいますが近所にコンビニがあるので冷蔵庫もない生活をしていました。が、登山部出身のT氏と出会いT氏が部屋で鍋を作ってくれたりするので、調理器具が増えたりしてきていたそうです。


あぁ話がそれましたね。でもこれが大事なつながりになるのです。

店でMYさんが話しかけてくれたことがあったんだと思います。MY氏は浄土平が主な撮影フィールドでした。たまには私が浄土平に行っていることを話して「じゃぁ」ということで携帯の番号でも教え合っていたのかもしれません。そしてまず浄土平でMY氏と一緒に撮影した記憶があります。またしばらくして、MY氏からT氏と千葉に出来たMR氏の面白い店に行くんだけど一緒に行ってみないか?と誘われ、T氏とも直接のお知り合いになれました。MR氏の店は当時最新のピクトロスタットデジタルを入れたり、アストロカメラ、オフアキシステムを生み出し始めていていました。

その頃はもう学生生活が長引いていたころでした。さて私のバイトですが、、当時その店は勢いがあるが故の問題も気になっていました。対応で、お客様第一と言えない部分も気になってきてしまい、発売する商品も元に戻せない2メーカーを組み合わせた"ニコイチ品"などがあってどうかな、と思い始めていました。バイトが5年いるとはどういうこと?となるのも気分的に嫌だなぁと思っていましたしそこで、一区切りとしてバイトは終わりにしました。


MR氏の店や、MY氏の部屋でMY氏やT氏の中に私も入れてもらえるようになりました。そしれ冬季は、里美牧場にMY氏とT氏は撮影に行っていたですが、遠征にも合流するようになりました。冬で寒いので撮影中によくT氏が鍋を作ってくれました(鍋の話でつながってきました)。私は若いので2時間露出の世界でしたから撮影中は余裕だったのです。私は大根おろし係だと、-10℃の中大根おろしをおろしていました。撮影中、テーブルの鍋を囲んで会話がよく盛り上がりました。そんな中、MY氏とT氏が「先月の新月は、彼(H)と一緒だったんだが、大根おろしを苦労していた」とか話を始めました。そして私は「あれ?H氏というのはあの、店で見た体格のいい若いお兄さんか?」と気づきました。MY氏から話から出てくる彼の機材を聞いて、同一人物であることを確信しました。


MY氏やT氏にも大変お世話になり、人生についていろいろ学ばせていただきました。しらびそ高原に初めて行くときに案内していただいたのもT氏でしたし、よくMR氏の家にも私一人でもお邪魔しました。本棚に私と同じく中島義道の本があるのに気づき、孤独?について話したことなんかもありましたっけ。


話を戻しましょう、彼も里美牧場やMR氏の店に良く行くようになっていたのです。私のバイトしていた店の問題から他の店に流れている人も少なからずいたようでした。

そして、後日MR氏の店にプリントに行って、初めて彼と直接出会ったのです。はじめは私が警戒?していたのと、彼は社会人で私がまだその時が学生、という負い目から、こちらが打ち解けることができませんでした。はじめの頃はMR氏も交え、彼を里美牧場で撮影するところから入ったと思います。だんだんと打ち解けてきました。そして、同じタイミングでT氏は転勤で東京を離れ、MY氏は腰痛で天体写真をやれなくなり、私らは大抵2人で遠征に出るようになっていました。


まだ若かった私たちがは新月毎というよりは連休時にどーんと遠征するスタイルでした。特にGWや盆休みは遠征地で3連泊とかを平気でこなしていました。しかも、不思議と20年前の晴天率は凄まじく3夜晴れることも普通にあったような気がします。今は、デジタルになった影響か分かりませんが、連泊は少なく1夜を大切にする撮り方をする人が多いのではないでしょうか。私も今はそうです。

3夜も連泊する時代は、遠征の時間は贅沢でした。そして私たちはガツガツ撮るタイプではなかったのです。3連泊前提ですから、到着した翌日は確実に現場で寝るわけです。するとどうなるでしょう、まず遠征地に着くと「長い運転お疲れ~」で、クーラーボックスからスーパードライ500ml缶が出てきてプシュッと。H氏は職場から直行で来てスーツ姿で到着ということも多くありました。マジでお疲れ~!です。1杯やって調子が出てから機材を組み立てはじめ、また機材が組み上げ終わると「建前」だと2本目です。H氏は酒が強いからよいのですが、それに付き合う私は弱いので満点の夜空の元で寝てしまい、H氏はその時間で入選作を撮っていて、さらに隣にいたMR氏が表紙入選作を撮っていた、なんて事件もありました。

昼間は特になにをするでもなくダラダラ過ごし、昼飯は浄土平ではソースかつ丼、里美ではジンギスカンなど食にも抜かりはありませんでした。そのころの遠征地は他の人も多く賑やかでした。みんな大型機材で2連泊くらいは当たり前。MR氏の店を通じて顔見知りの方も多く、楽しい日々を過ごしました。

さて、撮影の方は特に真面目にやっていたわけではなかったのですが、抑えるところを抑えていたからなのか、フィルムが大らかだったからなのか、一度遠征すればH氏は3作とか入選作をたたき出し2誌3か月連続入選とかしていました。4,5千円の入選賞金を6本とかたたき出していたので、彼は遠征がペイして黒字になったとか言っていました。私も1作くらいは試しに送り、入選を少しずつ繰り返していました。楽しくフォトコンをやっていました。


遠征から帰った次の休日は次の“お祭り”の「現像」「プリント」です。フィルム時代は主にポジで撮っていましたから現像はプロラボ任せ。よくフジ系の「クリエイト」に出していました。現像終了までは2時間かかりますから、ヨドバシとかで暇のつぶせる新宿に2人で集合しました。(今日は勇気を出して言います)でも彼は何度か30分遅刻してきました。なぜでしょうか!?新宿駅の北方面にいろんなところがありますね。はいったところがアタリだったのでつい“延長”したら遅刻しちゃった!と言っていました。クリエイトに出し、現像上がりまではマップカメラで中古カメラを見たり、ヨドバシで買い物したり、飯を食べたりしていました。そしてクリエイトで現像が上がり店内のライトボックスで、「よしゃ~」「あちゃー」とつぶやいたあと、MR氏の店へプリントへ出発です。

MR氏の店には天体写真に熱中するいろんな人が集まってました、プリント終わってもお菓子を食べながら、翌日仕事であってもみなさん午前2時とかまでたむろっていました。話は天体写真ばかりでなく、いろいろでした。MR氏はよく付き合っていただいたなと思いました。場と楽しい機材とアドバイスをいただけたことに感謝です。またMR氏のお店で、これまた一回り先輩のK氏と出会い、店や遠征先で天体写真以外のことも教えていただきました。店で出前をとって夕食にしたり、遠征以外の週末も楽しい日々を過ごしました。



彼とは遠征や、天候が悪くて浄土平に上がれず2人で檜原湖でキャンプしたり、街では喫茶店や中古カメラ巡りしたり、濃い数年間でした。

とても、とても楽しいフィルム天体写真生活を繰り返しました。



そして3年繰り返すうちに、先輩のK氏も海外出向で日本を離れ、彼は仕事が忙しくなり撮影をきっぱり止め機材を手放してしました。私も社会人になりました。

彼とは長い休眠期間となりました。



私は一人になりかけましたが、この3年の間に、浄土平を通じて知り合いになった方々と次の約15年を過ごしました。



また、今の私があるのはこの3年間、もちろんH氏を含め、たくさんの先輩方との出会いが支えになったのと、学ばせていいただいたことがあってです。ちゃんとお礼をお伝えしたことがありませんでした。

この場を借りて、お礼を申し上げます。感謝しております。本当にありがとうございました。

 

 

 

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